ポタリングなどで出会った保存車両

解説は、保存場所にあった説明文をそのまま書き写しました

D51777

(刈谷市)昭和17年9月26日汽車製造株式会社で産声をあげ現役時代を東海道線中央西線で事故にも遭遇することなく実に30年間2,091,187.5キロメートルを走破したラッキーナンバーをかかげた蒸気機関車です。

D51793

(長浜市)D51形793号蒸気機関車は、ダイナミックな雄姿から「デゴイチ」の愛称で広く親しまれ、1,115両も製造されました。このD51形793号は1942(昭和17)年11月18日に三菱重工業(株)で製造され、東北・東海道・中央・北陸の各線を、1970(昭和45)年まで27年余り走りました。その走行距離は1,784,000kmで、地球を約44周したことになります。1970(昭和45)年10月「消えゆく蒸気機関車をぜひ長浜で保存したい」という市民の声にこたえ、当時の国鉄金沢鉄道管理局から貸与されました。

D51849

(豊田市)製造年月日 昭和18年9月11日 使用開始年月日 昭和18年9月19日 使用終了年月日 昭和47年5月13日 走行キロ数 1,775,111.3キロ

D51402

(飯田市)D51型蒸気機関車は、昭和11年から昭和20年までの10年間に1,115輌が製造され、客貨輸送の花形として活躍し、「デゴイチ」の愛称で親しまれてきました。このD51-402は、402番目として昭和15年2月に製造され、米原機関区に3年、水戸機関区に14年、中津川機関区に15年配属されて活躍し、この間に246000km(地球を60周、月面往復約8.6回)を走行しました。しかし国鉄の動力近代化に伴って、かつての栄光の座を、電気機関車にゆずり、昭和47年3月に廃車されたため、飯田ライオンズクラブが結成10周年記念事業として国鉄から貸与を受け飯田市に寄贈されました。

C12163

(七宗町)本機は、昭和12年7月に日本車輌(株)で生まれ、昭和20年7月戦災で転籍簿が焼失したので以前は不詳であるが、昭和17年5月に美濃太田機関区にいたことは確認されています。本機に華やかな記録はありませんが、戦中・戦後の当時はローカル線の花形で、山深い越美南線や高山本線で旅客列車を引き汽笛を鳴らして走る姿は、素朴な村の人々に大変可愛がられてました。昭和46年小郡機関区を引退することとなり、この間実に150万kmも走行しました。

D51499

(津市)この機関車は昭和16年2月1日に兵庫県で誕生し、三重県内の関西線、紀勢線、参宮線を雨の日も風の日も32年以上走り続け、昭和48年9月17日、役目を終えました。その間に走った距離はなんと205万キロメートル(地球を51周)にもなりました。多くの人々に親しまれたこの機関車は、昭和48年10月9日に大型トレーラーでこの公園に運ばれました。

C11265

(半田市)明治19年3月東海地区で始めて鉄道として開通した武豊線は、1世紀を越え地域の発展に大きく貢献してきました。蒸気機関車は、「汽車ポッポ」の愛称で永く市民に親しまれてきましたが、昭和45年6月30日国鉄の動力近代化計画によってその姿を消しました。その時の「さよなら列車」をけん引した蒸気機関車C11265の保存について多くの市民から強い要望があり、半田市は名古屋鉄道管理局を通じて国鉄本社に貸与方を申請し、昭和46年3月27日半田市民ホールに静態保存機関車として展示しました。その後、平成19年9月JR半田駅北側へ移転展示となり現在に至っております。

D51351

(南木曾町)D51351機関車は昭和15年3月から30有余年の永い間、日本海沿いに、或いは中央西線木曽谷沿いに走り続けて地域の産業経済文化等の発展に多大な貢献をしてきましたが、国鉄の近代化(電化)に伴って廃車となりました。この馴染み深い「デゴイチ」を学校教育に役立てるために、昭和49年5月に国鉄から貸与を受けてこの中央線の旧線上に展示したものです。

58623

(豊川市)大正11年、日車として初めて国有鉄道(当時の鉄道省)に納入した制式蒸気機関車です。それ以前にも各地私鉄向け、あるいは鉄道省にも建設工事用として各種の蒸気機関車を50両以上納入していましたが、この58623号が本格的旅客、貨物列車として初めての鉄道向け蒸気機関車となりました。8620形は亜幹線での旅客列車・貨物列車両用の蒸気機関車であり、58623号も汎用機として四国に新製投入されました。以来この機関車は一度も四国を離れることなく活躍し、小松島機関区を最後として昭和43年3月に引退しました。

オハフ33形客車

(揖斐川町)オハフ33形車掌室付客車は、昭和14年から昭和18年にかけて346両、21年から24年にかけて35両製造された客車で全国各地で活躍したのち、昭和59年10月樽見鉄道の発足にあたり、当時の国鉄から3両購入しレールバスと同一色に模様替えし、オハフ500形と名付けて運行された。平成2年3月老朽化のため営業運転を終え、そのうちの1両を平成2年5月谷汲村へ寄贈され展示保存している。現在の車体色は、昭和初期の色に復元したもので、赤のラインに白線3本は三等客車を示し、当時は一等車・二等車とあり特別料金が設定されていた。

D51718

(一宮市)D51型蒸気機関車は、国鉄機関車製作史上最も多く作られた機関車である。このD51718は、昭和18年7月日立製作所(株)笠戸工場で製作、同年7月11日広島機関区に配属になり、以後亀山、奈良、関西、紀勢田辺、長門機関区等に順次転属になった。また山陽、東北、釜石、関西、紀勢、山陰の各線で貨物列車をけん引し、地域産業発展に寄与してきたが、国鉄の動力近代化にともない、昭和49年4月25日現役を退くまでの31年間に1,957,104.4km走り続けた。この距離は地球と月との間を約2.6往復したことになる。

D51823

(稲沢市)デゴイチ(D51)の愛称で親しまれてきたD51型蒸気機関車は、国鉄で最も多く作られた花形機関車である。このD51 823型は昭和18年2月、国鉄浜松工機部で製造された蒸気機関車の完成期のものである。同年3月稲沢機関区に配属されてから米原、金沢、富山機関区と転属、再び稲沢第一機関区にもどり、主に貨物機関車として地域経済の発展に寄与してきたが、国鉄の動力が電気化されたため、昭和45年8月現役を退くまでの27年間、1,883,286.9kmを走り続け、陶磁の貨物輸送を支えてきました。特に戦時中には東海道、新居町〜弁天島間で機銃掃射をうけボイラー貫通という痛ましい傷を受けた。なお、ナンバープレート番号の下に形式D51と挿入されている。これは他にはほとんど見られない珍しい特徴である。

C12244

(恵那市、明智小学校)この機関車は昭和15年7月30日、日立製作所で製作され、白山、新潟、直江津、中津川、稲沢第一、西舞鶴、厚狭駅の各機関区に順次配属され越後、信越、明知、舞鶴、厚狭の各線で近距離旅客貨物輸送に活躍の後、48年3月再び中津川機関区配属となり明知線ほ貨物列車をけん引、地一気産業文化の発展に多大の貢献をしました。この間の運転総キロは112万8579キロに達し、これは地球と月の間を約1.5往復したことになります。昭和48年11月30日廃車となり、この小学校校庭に保存展示。

C1274

(恵那市、中央図書館)

D51266

(中津川市)D51266号は昭和14年7月18日に川崎車両株式会社で製造されました。高さ3,980mm幅2,936mm長さ19,730mm重さ123t最高速度85km/h1,280馬力の力があり「人間の創った機会のうちでもっとも生物に近い機械である」といわれております。最初は東海道浜松機関区で昭和14年から6年間勤め、戦後は多治見機関区に4年間移り、昭和24年秋から中津川機関区に配属されて、貨物・勾配線客貨列車をけん引して走っておりましたが、昭和44年8月南木曽駅〜十二兼駅間で第風7号の集中豪雨により濁流が押し寄せ機関車は流木に乗り上げ先輪が一軸右側へ約70mm脱線するという事故にあいました。昭和46年4月8日中津川〜塩尻間を往復したのが最後で同年4月23日廃車になる迄23年間走った距離は246万3532.1km、地球を60周くらいしたことになります。デゴイチと愛称されているD51型蒸気機関車は国鉄技術の粋を結集して最も多く創られた花形機関車で我が国輸送界の中心となり戦後の日本の復興をめざし平和で明るく豊かな日本へと力強く引っぱり続けそのスマートさと豪快な疾走ぶりは広く国民に親しまれて来ました。昭和46年5月20日ときあたかも中津川市制20周年学制実施100年鉄道開設100年中津川〜名古屋間鉄道開通70周年の記念すべき年を迎えるにあたり、日本国有鉄道(JR東海)のご厚意により中津川市に貸与されたものであります。

ケ90形式

(リニア・鉄道館)1918(大正7)年に新多治見〜広見間で営業を開始した東濃鉄道で使用された蒸気機関車。線路幅は通常よりも狭い767mmの軽便鉄道と呼ばれていた路線で使用された。新多治見〜広見間は1926(大正15)年に鉄道省に買収されて、ケ90形式も鉄道省所属の機関車として、1928(昭和3)年に太多線が1067mmに改軌されるまで使用された。

C6217

(リニア・鉄道館)急行、特急用として製作された日本で最大・最速の旅客用大型蒸気機関車。既存のD52形式蒸気機関車のボイラーを流用して1948(昭和23)年から総計49両が誕生。東海道本線の特急「つばめ」「はと」などの牽引に使用した。この展示車両(17号機)は1754(昭和29)年の木曽川橋梁の強度試験にて129km/hを記録。これは狭軌における蒸気機関車の世界記録になっている。

C57139

(リニア・鉄道館)主要路線で運転される旅客列車を牽引することを目的に、1937(昭和12)年から総計210両が製作された蒸気機関車。ボイラー、動輪などの改良によって、中型の機関車でありながら高い性能を誇る。扱いやすい機関車としてその足跡は全国に及んだ。直径1750mmという大きな動輪と細身のボイラーは、バランスの取れた美しさで評価が高い。

C12244

(恵那市)以前明智小学校に保存されていたC12は、現在明知線明智駅に移動され、復活の日を待っています。

D51824

(諏訪市)D51形蒸気機関車は、デゴイチという愛称で親しまれ、昭和11年にはじめて製造された蒸気機関車で、国鉄の主要機関車のなかで最大の製造数を誇る代表的な蒸気機関車です。このD51824号は、昭和24年6月上諏訪機関区に配属となり、以来昭和39年3月まで15年間、中央東線、篠ノ井線の主力機関車として、旅客、貨物の輸送に日夜活躍し、この地方の文化の交流、経済の発展に多大の貢献をしてまいりました。その後、松本、長野両機関区へ転属し、国鉄の動力近代化に伴って、昭和54年8月に廃車となりました。この間の稼働実績は、27年間、約170万キロメートル(地球を約42周)を走行しております。このなじみ深いD51824号が末長く科学的遺産として、また教育資料として、諏訪湖畔に永久保存されることになりました。どうか皆さん、いつまでもやさしく可愛がってください。

C5766

(大田区、新居西交通公園)製造年月日:昭和13年8月20日 製造所:川崎車両株式会社 経歴;35年余りの長い間、急行、普通旅客列車を引いて来ました。 走行距離;3,124,321.6km この距離は地球を約79周。月まで約4往復したことになります。 C57蒸気機関車はそのスマートさで愛称「貴婦人」と呼ばれ、昭和13年(1938)に誕生した大型旅客用蒸気機関車で、昭和19年までに201両製造され、動輪形式が従来のスポーク動輪からボックス動輪になり、時速約100kmで安定した走行をします。

37

(大田区、萩中自動交通公園)この蒸気機関車は1914年(大正3年)にイギリス・マンチェスターの「ベーヤー・ピーコック社」で製造された物で、1966年(昭和41年)の9月頃まで東武鉄道で最後の蒸気機関車として活躍していました。東武鉄道の厚意により、将来の電化で姿を消す運命にある蒸気機関車を、子供達の教材として区が譲り受けたものです。平成8年9月、老朽化が進み痛みが目立つため、大改修工事を実施いたしました。生まれ変わった蒸気機関車をより一層可愛がって下さい。

D51428

(大田区、東調布公園)製造年月日:昭和15年9月10日 製造所:日本車輌製造株式会社 経歴;32年余の長い間、貨物の運搬に、又伯備線で三重連を引く等の活躍をしました。 走行距離;2,145,187.9km この距離は地球を約54周。月まで約3往復したことになります。 D51蒸気機関車は愛称「デゴイチ」の名で親しまれ昭和11年(1936)に誕生した大型貨物用蒸気機関車で昭和20年(1945)までに1115両も製造された日本の代表的な蒸気機関車です。

D51272

(世田谷区、世田谷公園)D51-272蒸気機関車は、昭和14年8月8日に川崎車輌で製造され、昭和14年8月13日から使用を開始し、昭和47年9月30日に山口県厚狭機関区で廃車されるまでに実に33年余の長い間、主に九州広島方面で貨物の輸送専門に活躍してきました。この間の走行距離は約2,458,000kmでこの距離は地球を61周、月までは約3往復したことになります。D51形蒸気機関車は愛称「デゴイチ」の名で親しまれ、昭和11年(1936年)に誕生した大型貨物用蒸気機関車で昭和20年(1945年)までに1115両も製作された日本の代表的な蒸気機関車です。

1号機関車(150形式)

(さいたま市、鉄道博物館)1872(明治5)年新橋〜横浜間の開業にあたりイギリスから導入された・近距離用の「タンク式」機関車・1911(明治44)年に島原鉄道(長崎県)に払い下げられたが、保存のため1930(昭和5)年に譲り受ける・国指定重要文化財(1997年指定)・鉄道記念物(1958年指定)

善光号機関車(1292形式)

(さいたま市、鉄道博物館)日本鉄道上野〜熊谷間の建設工事に使われた機関車で、現在の埼玉県川口市善光寺付近の荒川河川敷で陸揚げされたため、「善光号」と命名・当時イギリスで使われていた「インサイドシリンダー」「サドルタンク」を採用・阪神間鉄道建設用に2両(1987年)、日本鉄道建設用に1両(1981年)を輸入・鉄道記念物(1959年指定)

9850形式

(さいたま市、鉄道博物館)東海道本線が御殿場経由の時代、急勾配のある箱根越えで活躍した「マレー式」機関車・大きな牽引力を得ながら曲線を通過できるように「関節式台枠」を採用・高圧シリンダーで使用した蒸気を低圧シリンダーで再び活用する「複式」を採用・2組の走り装置のうち、前方が左右に可動する「マレー式」を採用・出力を増やすため、蒸気の中の水分を多く除く「過熱式ボイラー」を採用

弁慶号機関車(7100形式)

(さいたま市、鉄道博物館)1880(明治13 )年開業の北海道最初の鉄道「幌内鉄道」ではじめて使われた蒸気機関車・アメリカから最初に輸入された2両の機関車は「義経」「弁慶」と命名・「カウキャッチャー」「ダイヤモンドスタック(煙突)」「大型ヘッドライト」「ベル(鐘)」などアメリカ風のスタイル・薪も燃料にできる火の粉止めつき煙突(「ダイヤモンドスタック」)・長距離走行可能な「テンダー式」・当時最新技術の「空気ブレーキ」を装備・1884(明治17)年までに同型式を8両輸入・鉄道記念物(1958年指定)

C57135

(さいたま市、鉄道博物館)1975(昭和50)年室蘭本線岩見沢〜室蘭間で蒸気機関車による最後の旅客列車を牽引した機関車・製造技術が確立した時代の旅客用蒸気機関車・機器類に当時製造された蒸気機関車共通の部品を使用・国鉄の旅客用機関車に共通の直径1,750mmの動輪を採用・強度を高めるための「ボックス動輪」・出力を増やすために最高ボイラー圧力16kg/cm2を採用・同じ時代の貨物用機関車はD51形式

C515

(さいたま市、鉄道博物館)東海道本線などで特急用に使われた国産初の高速旅客用機関車でのちに地方の主要路線でも活躍・高速旅客用として国産初の「2C1」車軸配置と日本最大の直径1,750mmの動輪を採用・安定した性能から御召列車の専用機関車にも指定・優れた性能により、旅客用蒸気機関車としては8620形式・C58形式につぐ289両が製造され、1966(昭和41)年まで活躍

C111

(青梅市、青梅鉄道公園)この形式は都市近郊で近距離旅客列車用として製作された、昭和初期の代表的タンク機関車です。この機関車はその第1号として昭和7年6月(1932年)汽車会社で製作され昭和37年まで関西方面で活躍していました。

E102

(青梅市、青梅鉄道公園)急勾配配線用として製作されたもので、わが国最大のタンク機関車です。当初はトンネル区間を運転するため煙突を後ろにして後ろむきに運転する構造となっていました。又曲線通過に無理がないよう第3・4動輪タイヤにはフランジがありません。この機関車は昭和22年(1947年)汽車会社において製作されたもので、最初奥羽線の庭坂ー米沢間に、その後は肥薩線人吉ー吉松間や北陸線金沢ー石動間の勾配線に使われ、昭和32年から北陸線米原ー田村間を運転していたものです。

D51452

(青梅市、青梅鉄道公園)この形式は、D50形式(大正12年から製作)に代わる主要幹線貨物列車用として、昭和11年から製作されました。終戦までに、同一形式としては最多数の1,100両以上が製作されて全国に配置され、デゴイチ(D51)の愛称で親しまれています。とくに戦後の貨物輸送を通じて日本の経済復興に大きな役割を果たしました。この機関車は昭和15年汽車会社で製作され、昭和40年まで東北本線郡山ー盛岡間で、その後昭和47年まで関西本線亀山ー天王寺間で活躍し、32年間に213万km(地球を60周)を走破して、この地に引退したものです。

110

(青梅市、青梅鉄道公園)明治4年(1871年)、イギリスのヨークシャー・エンジン社で製作され、鉄道創業時に「10号機関車」として新橋ー横浜間に使われ、のちに「3号機関車」と呼ばれた最も古い機関車の一つです。明治42年(1909年)に「110号機関車」と名前を改め、その後、各所で活躍した後、大正7年(1918年)まで汐留駅構内入換に使われていました。大正12年(1923年)から昭和20年まで国鉄大宮工場の鉄道参考品陳列所に展示され、陳列所がなくなったあとも、ずっと工場に保管されていたものです。昭和36年10月14日鉄道記念物(16番目)に指定されました。

2221

(青梅市、青梅鉄道公園)この形式は明治時代のタンク機関車としての強力機関車で日露戦争(1904〜5年)当時、急にアメリカやイギリス、ドイツなどに注文し一部は満州でも使われました。当初はB6型と呼ばれ両数が多かったので(最も多いとき268両)貨物列車用や勾配線用として至るところで活躍し、戦後もしばらくの間入換用として使用されていました。この機関車は明治38年(1905年)英国のノーズブリティッシュ社で製作され昭和30年3月まで使用されました。

5540

(青梅市、青梅鉄道公園)この形式は明治時代の後半より大正初期にかけて旅客列車用として愛用された機関車です。当時60両もありました。この機関車は明治30年(1897年)英国のバイヤーピーコック社で製作され第一線で活躍した後は入換機として使用されたのち札幌工事局で、昭和36年まで工事用として活用していました。

8620

(青梅市、青梅鉄道公園)この形式は明治末期に輸入された各種の機関車の長所を取り入れ、日本で設計製造された非常に優秀な性能をもった機関車です。全部で670両もつくられ、各地の幹線旅客列車用途して使われた大正時代の国鉄を代表する機関車です。この機関車は大正3年(1914年)汽車会社によってつくられ、九州で活躍後、昭和10年四国に移され、昭和33年9月に廃車となったもので多度津工場(香川県)に保存されていました。

9608

(青梅市、青梅鉄道公園)この形式は大正時代の代表的な貨物機関車で十分な火床面積を得るため動輪上に火室を置いたのが特長で、このためボイラ中心線は非常に高いが引張力は強大で、大正12年(1923年)D50形式が出現するまで貨物列車用や勾配線用の標準形として毎年製造され、その両数は784両にもなりました。テレビ映画「旅路」に登場したのもこの形式です。この機関車は大正2年(1913年)川崎造船所兵庫工場で製作され、昭和37年7月まで関西地方で使用されていました。

C58407

(豊島区、大塚台公園)僕のあゆんだ道:昭和21年12月29日汽車製造株式会社大阪工場で誕生して、北海道五稜郭機関区に配属されて戦後の混乱した激動期の中で松前線と江差線の旅客貨物輸送に活躍しました。昭和48年8月12日函館機関区に移り、おもに構内の貨物車のいれかえ用として使用されましたが、動力近代化のために昭和48年12月1日で永年のお勤めをおわりました。その間の走行キロは役932,800キロで地球を約23周したことになります。昭和49年5月5日、豊島区のおねがいで大塚台公園に保存されることになりました。今後みなさんのお友だちとして、かわいがってください。

D51470

(岐阜市、梅林公園

D51231

(台東区、上野公園)D51形蒸気機関車は、おもに貨物用として昭和11年より製造されてきましたが、その優れた性能から日本国有鉄道で当時最も多く使われ、デゴイチの愛称で人々に親しまれてきました。この231号は昭和14年7月に日本国有鉄道長野工場で製作されてから、東海道本線・山陰本線・その他で活躍し、昭和50年12月15日北海道追分機関区で休車するまで約216万km(地球を約54周)を走行しました。

C11292

(港区、新橋駅日比谷口前SL広場

C5096

(焼津市、小石川公園)私は、昭和4年12月に名古屋市で生まれました。当時は、旅客列車用の花形機関車として米原機関区に配属され、東海道本線の急行旅客列車などをけん引しました。その後、稲沢・名古屋・美濃太田・豊橋の各機関区に転属し、主として、東海道本線・関西本線・高山本線で活躍し、最後は、豊橋駅の構内で入換用機関車として、昭和46年3月まで活躍いたしました。しかし私も年寄りになりましたし、国鉄の動力の近代化ということもあって、電気機関車に後をゆずり、私の役目は終わったわけです。昭和46年12月には、廃車の指定を受け、42年という長い生涯を終え、まさにスクラップ寸善といったところを、焼津市の皆様のご好意で、ここ小石川公園に引き取られました。お化粧しなおして、よい子の皆様の前に二度目のおつとめをすることになったわけです。焼津の皆様の前に、姿を見せてから10年以上になりますが、あいかわらずかわいがっていただきたいと思います。

D51146

(静岡市、城北公園)私たちD51形蒸気機関者は、D50形の改良機として昭和11年(1936年)から20年(1945年)にかけて、全部で1115両が造られました。日本の代表的な機関車で、通称「デゴイチ」と親しまれました。私は、その中の146番目に名古屋の日本車輌株式会社で生まれました。北海道で働くことになった私は、岩見沢機関区や追分機関区に籍をおき、室蘭本線や函館本線などで37年間もの長い間雪の日も風の日も、いっしょうけんめい働きました。その間走った距離は地球67周に相当する2,675,000キロあまりになります。そんな私も、昭和50年(1975年)12月14日、室蘭本線を最後に引退しました。静岡には、昭和51年2月4日に来ました。みなさん、いつまでも大切にしてくださいね。

C5696

(長野県南佐久郡南牧村、野辺山駅)愛称「高原のポニー」昭和12年3月稲沢機関区へ配属(中略)昭和46年6月長野運転所転属、昭和48年6月廃車、昭和50年8月SLホテル開業、昭和62年3月廃業、平成元年9月現在地へ移転保存

C6215

(東京駅地下)"みなさんの足"として親しまれてきた国鉄は、今年で創業100年を迎えました。蒸気機関車は、この歴史とともに歩んできました。第2次世界大戦で戦災を受けた東京駅が修復された昭和23年に、これと時を同じくして誕生したC62形蒸気機関車は、日本復興のエースとして活躍し、世界最高の時速129キロを記録するなど、技術の粋をあつめた”栄光の名機”とうたわれました。このC6215号機は、東海道、山陽、函館本線などをかけめぐり、昭和46年12月解体されるまで、約263万キロ(地球を65.7周)を走り続けました。”鉄道100年”に完成したこの東京地下駅に、同機の動輪をかざり、その歴史をたたえることとしました。昭和47年7月15日日本国有鉄道

D511149

(滋賀県多賀町 SLパーク跡

C1267

(長野県茅野市 茅野駅前)このC12形式タンク機関車は、昭和7年に誕生し、国内の産業・経済・文化の発展に大きく貢献しました。このC1267は、その67号機です。太平洋戦争中、現在の市内北山地籍にあった諏訪鉄山から軍需用に鉄鉱石が採掘されました。その輸送のため茅野駅まで専用鉄道が敷かれ、田園地帯を蒸気機関車が走りました。そこで活躍したのが、この機関車と同じC12型の機関車でした。市では、この機関車の廃車に際し、昭和48年、かつての歴史を伝える社会的教材として旧国鉄(現JR)から貸与を受けました。そして現在、機関車にふさわしい駅前の交通広場に配置し、この場所で市民の皆さんや遠方の方々に一時を憩っていただけるように展示しています。(付記)この機関車は、昭和8年、茨城県日立製作所で製作され、全国各地に配属され役目を果たしましたが、電気機関車の普及に伴い、昭和48年に廃車となりました。この間40年、約158万km(地球を約39.5周)を走行しました。